塚本 晋也のプロフィール

プロフィール

  • 名前:塚本 晋也(つかもと しんや)
  • 生年月日:1960年1月1日

塚本 晋也とは何者か?

映画監督、俳優、ナレーターとさまざまな肩書きを持ち、マルチに活躍する塚本晋也氏。世界中に熱狂的なファンを持つなど、その才能に多くの場所から注目が集まります。自ら製作・監督・脚本・撮影・美術・編集・出演を兼ねる自主制作スタイルを貫くなど、自分らしく作品作りに携わる。こだわりとプロ意識を持った塚本氏に注目です。

自主映画制作は中学の頃から

東京都の下北沢に生まれ原宿で育ったという塚本氏。幼少の頃から観ていたウルトラQをはじめ多くの作品に衝撃を受け、中学時代から自主映画を作り始めたそうです。当時は怪獣映画に夢中で、円谷一の著書『特撮のタネ本』はバイブルでした。

中学2年生の時に水木しげる作のマンガ『原始さん』を原案にして、父が持っていた8ミリカメラで映画製作を始めます。商業デザイナーだった父の影響もあり、幼い頃から絵を描くことが好きだった塚本氏。進学した日本大学鶴ヶ丘高等学校高校では美術学科を専攻。その後、日本大学芸術学部へ進学・卒業します。

この頃のスタイルを大人になった今でもほぼ同じように貫いており、ほとんどの作品で自ら美術も手掛けるなど、独自の制作スタイルは中学時代から築かれていたようです。ちなみに高校時代は4本の映画を制作、日本テレビ主催のシネマフェスティバルで入賞を果たすなど当時から才能にあふれていたことが分かります。

高校生の頃、友人の助言で黒澤明の映画を観るようになったそうで、高校時代は黒澤映画をほとんど観ては映画への考え方や脚本の書き方などを勉強します。そういった高校生活を経て日本大学芸術学部に進学した後は、演劇に惹かれていきます。劇団を主宰するなど、映画とは少し離れていきますが決して映画監督の夢を捨てたわけではありませんでした。

卒業後すぐ夢は叶わず、しかし

卒業後は劇場映画の制作を目指すも夢叶わず、CM制作会社に就職します。今までの制作においてはすべて独学でしたが、ここで技術を学びます。CMディレクターとして忙しく働く一方、仕事も演劇も続けていましたが両立が難しくなり、4年間勤めた後に退社を決意します。 退社後には劇団を結成し、3本の芝居を興行します。

1988年、海獣シアターの仲間とともに作った『電柱小僧の冒険』でPFFアワードのグランプリを獲得する。 翌1989年、制作費1,000万、4畳半のアパートで廃物のSFXと少数のスタッフで制作された『鉄男』が、ローマ国際ファンタスティック映画祭のグランプリ受賞を果たします。

そしてこの映画は海外の映画祭に持ち込まれ、一般公開1作目にして国際的に高く評価されます。この功績は、後の海外映画祭における多数の新世代の日本映画評価への先鋒となるなど大変大きなものでした。その後も『ヒルコ/妖怪ハンター』や、『鉄男II BODY HAMMER』が世界40以上の映画祭に招待されるなどますます作品が注目されていきます。

1999年には、塚本氏が演じる中年のサラリーマンを主人公にしたバイオレンスアクション『バレット・バレエ』を制作。2002年大谷健太郎監督の『とらばいゆ』や三池崇史監督の『殺し屋1』に俳優として出演し、第57回毎日映画コンクール男優助演賞を受賞するなど俳優としても活躍します。

その後もさまざまな活躍は続き、2018年には長年塚本氏が思い描いたアイデア「一本の刀を過剰に見つめる若い浪人」が、塚本氏にとって初の時代劇となる『斬、』として映画化されました。多くのクリエイターにとって大きな影響を与え続け、これからも生み出されるであろう塚本氏の作品に期待です。

塚本 晋也のSNSを紹介

犬童 一心のプロフィール

プロフィール

  • 名前:犬童 一心(いぬどう いっしん)
  • 生年月日:1960年6月24日

犬童 一心とは何者か?

日本で活躍する映画監督、そして脚本家としても知られる犬童一心氏。映画「ジョゼと虎と魚たち」をはじめとする、さまざまな代表作を持っていることでも知られています。2016年には自身初となる小説を出版するなど、幅広い活躍がこれからも期待されます。若かりし頃から映画に携わり続ける犬童氏の魅力をご紹介しましょう。

高校在学中に自主制作映画をスタートさせる

東京都に生まれた犬童氏は、法政大学第一高等学校(現:法政大学高等学校)在学中より、自主制作映画の監督・製作をスタートさせます。犬童氏の映画人生は、ここから始まったといっても過言ではないでしょう。

その後1979年、『気分を変えて?』の脚本・監督を務め、ぴあフィルムフェスティバルで見事入選。入選後、映画監督やクリエイターの黒沢清、手塚眞らと知り合い交友を深めていきます。自主制作時代は、池袋文芸坐(現・新文芸坐)主催のMWC(マインド・ウェーブ・シネマ)に参加したり、フィルムによる作品を手がけるなど活動していたそうです。

東京造形大学造形学部へ入学し、卒業後は朝日プロモーション(現・ADKアーツ)へと入社。当時から才能あふれる犬童氏はCMディレクターとして数多くのTVCMの企画や演出を手掛け、ACC賞をはじめ多数受賞します。この頃はCM演出がメインでしたが、その傍ら監督・制作を務めたのが1993年に発表された『何もかも百回も言われたこと』でした。

そして同じ年、実写とアニメーションを組み合わせた短編作品『金魚の一生』の監督・製作で「キリンコンテンポラリーアワード」1993年度最優秀作品賞を受賞し、その功績がたたえられたのです。

長編映画への着手、監督・脚本家としての犬童氏

受賞の翌年『二人が喋ってる。』から長編作品でデビューします。作品は1996年、サンダンスフィルムフェスティバル in東京で見事グランプリに輝き、第37回日本映画監督協会新人賞を受賞します。この作品をきっかけに1998年、市川準監督より『大阪物語』の脚本執筆を依頼され、脚本家としても活躍します。

犬童氏が脚本をつとめた作品は他に、塩田明彦監督『黄泉がえり』があり、同作品は口コミで評判が広がり3ヶ月以上のロングランを果たすなど大ヒット映画となりました。この作品により犬童氏の名前を知った、という方も少なくありません。監督としてはもちろん、脚本家としての手腕も確かなものであることが分かります。

その後2003年には、第54回芸術選奨映画部門において監督作品『ジョゼと虎と魚たち』が「芸術選奨新人賞」に選出されます。第27回モントリオール世界映画祭、第39回シカゴ国際映画祭、第16回東京国際映画祭などに正式出品される作品となり、国内のみならず海外からも注目を集めました。

自主映画時代を含め3本の長編作品を映画化。2000年の『金髪の草原』と2008年の『グーグーだって猫である』では監督・脚本を兼務し、犬童氏の個性あふれる世界観が表現されています。映画だけではなく2014年、2016年の連続テレビドラマ版『グーグーだって猫である』『グーグーだって猫である2 -good good the fortune cat-』でもシリーズ構成と監督を担当しています。

自身は1970年代のホラー映画ファンとのこと。その雰囲気を自身の映画で演出に取り入れるなど、今後は「純粋なホラー映画を撮りたい」との発言もあり、多くのファンは待ちわびていることでしょう。これからもどんな作品が飛び出すのか、犬童氏の活躍が期待されます。

犬童 一心のSNSを紹介

秋元 康のプロフィール

プロフィール

  • 名前:秋元 康(あきもと やすし)
  • 生年月日:1958年5月2日

秋元 康とは何者か?

音楽プロデューサーとして、日本作家・作詞家・映画監督とさまざまな顔を持つ秋元氏。女性アイドルグループ「おニャン子クラブ」や、「AKB48」を世に送り出した名プロデューサーとしても広く知られています。現在の大活躍に至るまで、一体どんな道のりを歩んできたのか。秋元氏についてご紹介していきましょう。

放送作家として活躍し始めるまで

東京都のサラリーマン家庭に生まれた秋元氏。もともと官僚志望であり東大を目指すものの、中央大学附属高等学校に入学しなかなか勉強に集中できない日々を送っていました。そんな高校2年生の冬、ニッポン放送『せんだみつおの足かけ二日大進撃!』の番組内コーナーに、20枚にわたって書き上げたパロディ作品を同級生の薦めを受け送ります。

すると社員の亀渕昭信氏(のちに社長)と、放送作家グループに所属していた奥山侊伸氏、二人の目に留まり「ニッポン放送へ遊びに来るように」と声をかけられたのです。その後出入りするようになってからは奥山氏の弟子となり同グループに所属するようになります。

中央大学文学部入学後は放送作家として活動を始めていましたが、秋元氏にとって「放送作家をアルバイト」でしかなかったそうです。しかし当時のサラリーマンの4倍近い収入を放送作家業によって得ていたのですから、若い頃から才能あふれる人物であったことは確かでしょう。こうして秋元氏はごく自然な流れで、放送作家としての道を歩き始めます。

作詞家、プロデューサーとして

その後も続けていた放送作家業ですが、次第に物足りなさを感じていきます。そして職業の将来性に不安を感じていたところ、作詞を手掛けるきっかけを得ます。1981年、フジテレビ系で放送されたアニメ『とんでも戦士ムテキング』の挿入歌「タコローダンシング」で初めて作詞家としてクレジットされデビューを果たします。

アーティストに初めて提供した作品は、Alfeeの「言葉にしたくない天気」で、これ以降は作詞家としても本格的な活動を始めます。稲垣潤一や長渕剛の楽曲を作詞し、作詞家としての知名度もどんどん上がる一方で『ザ・ベストテン』、『夕やけニャンニャン』などの構成を担当して高視聴率を連発します。

もちろん楽曲の作詞を手掛け、多くの曲をヒットさせながら1985年からは女性アイドルグループ「おニャン子クラブ」の楽曲を手掛けメンバーを次々とソロデビューさせます。その際に全楽曲の作詞・プロデュースを担当し、これがのちのAKB48のプロデュースへと繋がっていきます。

そして歌姫・美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」の作詞を担当。これにより、秋元氏は作詞家としての地位を不動のものにするのです。

プロデューサーとしての活躍

東京・秋葉原で女性アイドルグループ「AKB48」を立ち上げ、総合プロデューサーに就任。AKB48は専用劇場で毎日公演を行う「会いに行けるアイドル」を目指し成功、多くのファンを集めます。国内外にAKB48の姉妹グループを設立し、いずれのグループも個性あふれる面々が所属しています。

作詞家歴として30年以上を過ごし、シングルのミリオンセラーを連発、多数の賞を受賞するなど華々しい経歴はここには書ききれないほどです。現在は2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事に就任しており、きたる東京オリンピックに向けて慌ただしい日々を送る秋元氏。

今後も秋元氏の描く世界観や新たな試みなど、どんなものが飛び出してくるのか。これからもますます進化し続けていく秋元氏の活躍に期待です。

秋元 康のSNSを紹介

なし

藤田 晋のプロフィール

プロフィール

  • 名前:藤田 晋(ふじた すすむ)
  • 生年月日:1973(昭和48)年5月16日

藤田 晋とは何者か?

東証1部上場株式会社サイバーエージェント代表取締役社長として大活躍されている藤田氏。総資産は1390億円、日本長者番付においては36位と一般人には想像できない世界に住む人、という印象も強いのではないでしょうか。そんな藤田氏についてご紹介していきます。

福井に生まれ育ち、「不真面目」な大学生活

藤田氏が生まれたのは北陸は福井県鯖江市。高校を卒業するまでを鯖江で過ごすなどごく普通の幼少期であったようです。地元の進学校である福井県立武生高等学校を卒業した後に上京し、東京の青山学院大学経営学部へ進学します。

大学生活は真面目に、というよりはどちらかというと「不真面目」であったそう。この頃は起業するなんて高い志もなく、ごく普通の大学生として毎日を謳歌していました。麻雀が大好きで、実は小学生時代から嗜んでいたほど。大学入学後には特に打ち込み、一時はプロを目指したほどの腕前だったそうです。

現在もその腕は衰えることなく、競技麻雀のプロリーグに関わる等、ビジネスのなかにも生かしているそう。藤田氏にとって麻雀は「ビジネスで大事なことの非常に多くのことを麻雀を通じて学んだ」といえるほど本人のなかでは重要なポジションを占めていることが分かります。

大学在学中に大学付近のベンチャー広告代理店で営業のアルバイトを2年半ほど経験し、まさに「アルバイトの合間に授業に出る」ような日々。この頃はまだ具体的な起業には至っていないものの、これらの経験はのちの藤田 晋氏を作り上げていったのではないでしょうか。

就職後「株式会社サイバーエージェント」設立

大学卒業後にすぐ起業ではなく、一旦は就職します。人材派遣会社インテリジェンス(現・パーソルキャリア)での勤務を経て、そして1998年に「株式会社サイバーエージェント」を設立、同社の代表取締役に就任します。これが今の大企業への第一歩でした。

そして2000年には記録を打ち立てます。26歳当時、同社の東証マザーズ上場を当時史上最年少で果たすという快挙。このニュースは大きく世間を賑わせます。この頃はIT業界やベンチャーなどが注目されていたこともあり、ほぼ同時期の起業で成功を収めた元ライブドアの堀江貴文や、楽天の三木谷浩史と並ぶいわゆる“ヒルズ族”の筆頭格としても語られています。

しかし実際には2009年に入居するまで六本木ヒルズとは全くの無関係であったため、世間のイメージが先行しているところも合ったのかもしれません。その後も会社は成長していき、藤田氏は多くのメディアの注目を集めながら更に飛躍していきます。

2006年には東京ヴェルディ1969を運営する日本テレビフットボールクラブの副社長に就任、2007年世界経済フォーラム主催のヤング・グローバル・リーダーに選出、2010年The Japan Timesが発表する「次世代を担う100人のCEO アジア2010」に選出、2014年日経ビジネス「社長が選ぶベスト社長」に選出。

挙げれば本当にキリがありません。

今後の活躍にも注目

2000年代初頭からまた時代は変化しています。しかし、藤田氏自身もまた進化し続けています。どんなことを考えているのか、藤田氏をもっと知りたい方は著書やご本人のSNSをチェックしてみることをおすすめします。

藤田 晋のSNSを紹介

孫 正義のプロフィール

プロフィール

  • 名前:孫 正義(そん まさよし)
  • 生年月日: 1957(昭和32)年8月11日

孫 正義とは何者か?

日本の代表的な実業家のひとり、といえば孫正義氏を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。ソフトバンクグループの創業者であり、多くの会社社長や会長、取締役などさまざまな肩書きを持つ孫氏。この方は一体、どんな人なのでしょうか。

決して順風満帆なだけではなかった幼少期

ソフトバンクグループの創業者として世界中に名を馳せる孫 正義氏は、ソフトバンクグループ代表取締役会長兼社長のみならず、ヤフー取締役やスプリント会長、福岡ソフトバンクホークス取締役など多くの役職を務め、日々多忙な毎日を送っていることでも知られています。

現在では華々しい活躍ばかりが目立ちますが、幼少期の頃は決して平坦な道ばかりではありませんでした。もともと在日韓国人実業家の二男として、佐賀県鳥栖市にある朝鮮人集落に生まれます。兄弟は4人、そして幼少期はその集落で過ごしていましたが、当時は差別も経験するなどご苦労もあったようです。

一時期は劣悪な環境のなかで生きていくしかない、しかしそんな孫氏に転機が訪れ父親が事業で大成功すると、パチンコ店を数十店舗、高級車を何台も保有するなど裕福な時期を迎えます。その後は福岡へと移住、福岡市立城南中学校に転入し、1973年に久留米大学附設高等学校へ入学します。

脱藩に憧れて渡米、驚きの行動力

しかし高校入学後は「脱藩に憧れて」渡米を決意し、驚くべき行動力を見せます。夏休みを利用して米国カリフォルニア州にて語学研修のため4週間の短期留学のち、1974年に久留米大学附設高等学校を中退し、渡米。米国ホーリー・ネームズ・カレッジの英語学校に入学し米国サンフランシスコセラモンテ高等学校の2年生に編入します。

3年生、4年生へと飛び級したあとは高校卒業検定試験に合格し、米国ホーリー・ネームズ・カレッジに入学。その後カリフォルニア大学バークレー校経済学部へ編入し、在学中に米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立します。このはじまりが、現在へと繋がっていくのです。

実業家としての華々しい活躍

大学卒業後は日本へ帰国し、福岡の博多に事務所を構え会社設立の準備がはじまります。コンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を設立史、その後福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。順調か、と思われた頃に慢性肝炎での入院を余儀なくされ、一時会長へと退きます。

その後は順調に回復し社長職にも復帰。1990年にはソフトバンク株式会社に社名変更し、1996年には1996年には米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立しました。今やビジネスにおいて孫 正義という名前を聞いたことがない、という方は少ないでしょう。それほど有名で、華々しい活躍が目立ちます。

エネルギー分野での取り組み

通信業だけでなく、エネルギー分野での取り組みも行っている孫氏ですが、2011年に起きた東日本大震災の際は個人で100億円の寄付をすると発表し、さまざまな支援やそれ以外の寄付など、被災者に向けての支援が行われました。これには多くの方も注目、関心を持たれたことでしょう。

現在も再生可能エネルギーなど、エネルギーに関する技術にも興味を持つなど今後も動向が気になります。未来へ向かって、まだまだ進化を遂げていく過程である孫氏。次はどんな試みが行われるのか、まだまだ注目は集まりそうです。

孫 正義のSNSを紹介

菅野 一勢のプロフィール

プロフィール

  • 名前:菅野 一勢(すがの いっせい)
  • 生年月日:1974(昭和49)年9月5日

菅野 一勢とは何者か?

1974年、神奈川県横浜市で生まれます。幼少期や学歴などについての詳しい情報は確認ができていませんが、出身校については神奈川県立釜利谷高等学校出身とのことです。

出典:菅野 一勢 – 人物名鑑ネット

おもに日本の実業家、講演家、作家として名を馳せる菅野 一勢氏。現在はシンガポールへ移住するなど拠点を日本ではなく海外へ移されているそう。なぜこのような毎日を送れるようになったのか、その理由と菅野氏についてご紹介したいと思います。

ごく普通の毎日からネットで稼いだ

インターネット事業での大成功をおさめる菅野氏ですが、実はものすごくパソコンが得意であったとか、人一倍多くの知識を有していた、というわけではなかったそうです。そもそもパソコンの知識もあまりなかったようで、ワードやエクセル、メールの送受信といった一般的な社会人であればできる操作も難しい状況だったとか。

しかし、そんな状態であったにも関わらず2003年にネットビジネスに参入。端から見ればまさに無謀とも言えるこの状況から大成功をおさめます。それは出来ないからやらない、ではなく、出来なくてもやる、たったこれだけのことだったのです。

実践をもとに培ったマーケティング

菅野氏がまだ大成功をおさめる少し前、まず1997年に個人事業主として神奈川県で東京電話代理店事業を始めます。その後、2000年に株式会社ホットラインを設立し代表取締役に就任。東京電話代理店事業はNTT東日本一次代理店、NTTコミュニケーションズ一次代理店、日本テレコム一次代理店、KDDI一次代理店などの通信会社の総合商社となりますがその後撤退します。

2001年には探偵業に参入し、探偵としての活動を始めるなど、ちょっと変わった経歴をお持ちなのも菅野氏の特徴でしょう。2年ほど探偵業を勤めたあと、2003年にインフォビジネス業界に参入しビジネスを始めます。ここからが菅野氏の成功の始まりとなるのです。

2005年にはインターネットでのコンサルティングサービスを開始し、翌年には当時からこのビジネスに特化する決済システムがあまりないことに注目。そこで情報起業家向けのEC決済システム会社インフォトップを創業します。情報を販売する販売者、その商品を紹介するアフィリエイター、情報を購入したい購入者の3者が集まるASPでした。

結果的にこのシステムが取扱高100億円越えるなど、いわゆる大成功をおさめたというわけです。そして多くの会社のオーナーになりますが、2015年にはインフォトップを売却。2016年以降は講演者・セミナー講師として若手の起業家の育成に励んでいるようで、また新たな人生を歩まれているそうです。

シンガポールでの暮らし

育成に励んでいる、といってもそれ以外のビジネスに携わらなくなったのか、というとそうでもありません。メルマガの発行や、定期的なセミナーの開催など精力的に活動されているようです。ただ拠点は日本ではなくシンガポールに移し、普段はシンガポールでの暮らしを選択されています。

未だに多くのグループ社を持ち幅広く活躍されている菅野氏。ごく一般人から成功をおさめ、自分らしい生き方を見つけるなど、とても順風満帆なイメージがあります。しかし成功のきっかけはなんといっても菅野氏の行動力の賜物でしょう。

菅野氏の著書にも、大変興味深い夢の叶え方など、目から鱗の言葉が満載ですので気になる方はチェックしてみてはいかがでしょうか。またSNSでも普段の様子を見ることが出来るので、どんな毎日を送っているのか、実際に思っていることなどを知れる機会ですのでぜひ。

参考サイト:菅野一勢:シンガポールに移住したあの人

菅野 一勢のSNSを紹介